同性愛者は死ぬまで出てくるな!真っ当な顔して生活するなっ!ってな
アフリカ中部ウガンダのムセベニ大統領は24日、一部の同性愛行為に終身刑を科す「反同性愛法案」に署名した。(CNN JAPANより)
同性愛は認めない。大統領が国の方針として反同性愛法案を認めることに対して他国から文句を言われても、他国に従うようなことはしない。これはウガンダが出した答えであって他国が口出しを出来るものではなく、それに口を出すのは社会的な帝国主義でしかない。またこれで批判を受けて国交に応じてもらえなくなっても、それ以外の国と取引すればいいだけで問題ないとしている。
欧米では同性愛は認められており、愛の形は様々だということを国際社会に提示している。それをウガンダは「価値観の押しつけであって、すべての国が守るべき法律ではない」と大統領が直々に述べたのである。
日本でも同性愛者に偏見がないかというと、まだまだ消えることのない偏見はあり、それに苦しめられている人、それを気にせず堂々としている人がいる。当然どんな形の愛であろうが人それぞれで、法律によってはかれるものでもなければ、裁かれるものでもない。
自分は異性に興味を示し、世間一般で言う「通常」の部類に入る人間。同性愛をされている人達の苦しみや悲しみがわかるかと言われれば、当然のことながらわからない。自分が経験したことのない世界で、正直に言うと今現在は全く興味がない。
ただし、ひとつ思うことがある。
それは、「通常」や「常識」という概念こそが人が作り出したものであって、多数決の結果に過ぎないということ。多いか少ないか。過半数を占めるか少数派か。そんなところである。
例えば、幻聴が9割の人にある症状だとしよう。するとどうだろう?きっと、幻聴のない人が「異常」「不健康」ということになって耳鼻科に受診をしなさい!とならないだろうか?極論なのは承知の上だが、これが多数決の結果に過ぎない「常識と非常識」「正解か不正解」の分別なのである。
それが、最も当てはまる法令ではないかと思ったのである。
ウガンダの大統領は、他国の価値観を押し付けるなと公言しているが、自分の価値観を国民に押し付けているのは自分なのではないだろうか?と疑問が残る話題である。